おとなになれなかった弟たちに・・・
今年も8月15日、敗戦の日がやってきました。
数年前に作家の落合恵子さんがラジオで「おとなになれなかった弟たちに・・・」という絵本を紹介していて、心に残る話だったので検索で調べていたら、俳優の米倉斉加年さんが作者だということを知りました。昔からテレビによく出ていらっしゃいますが、私の年代だと焼肉のたれのコマーシャルのイメージが強いのかな?それにしても多才な方なんですね~。
米倉さんの原体験なのかどうかは知りませんが、あらすじはヒロユキという名前の弟がいる少年の目線で淡々と描いた疎開体験とその弟の死の話です。
戦況がひどくなり田舎の親戚に疎開を頼むも断られ、田舎の農家になんとか間借りして暮らすのですが、乳飲み子の弟が栄養失調でなくなるという悲しい話で、夫が戦争に行き、家族を守るために頑張る母親に心を打たれます。(以下一部引用)
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ヒロユキをおんぶして、僕はよく川へ遊びに出かけました。僕は弟が欲しかったので、よくかわいがりました。
ヒロユキは病気になりました。僕たちの村から三里くらい離れた町の病院に入院しました。僕は学校から帰る と、毎日、まきと食べ物を祖母に用意してもらい、母と弟のいる病院に、バスに乗って出かけました。
十日間くらい入院したでしょうか。
ヒロユキは死にました。
暗い電気の下で、小さな小さな口に綿にふくませた水を飲ませた夜を、僕は忘れられません。泣きもせず、弟は 静かに息をひきとりました。母と僕に見守られて、弟は死にました。病名はありません。栄養失調です……。
死んだ弟を母がおんぶして、僕は片手にやかん、そして片手にヒロユキの身の回りのものを入れた小さなふろし き包みを持って、家に帰りました。
白い乾いた一本道を、三人で山の村に向かって歩き続けました。バスがありましたが、母は弟が死んでいるの でほかの人に遠慮したのでしょう、三里の道を歩きました。
空は高く高く青く澄んでいました。ブウーンブウーンというB29の独特のエンジンの音がして、青空にきらっきらっ と機体が美しく輝いています。道にも畑にも、人影はありませんでした。歩いているのは三人だけです。
母がときどきヒロユキの顔に飛んでくるはえを手ではらいながら、言いました。
「ヒロユキは幸せだった。母と兄とお医者さん、看護婦さんにみとられて死んだのだから。空襲の爆撃で死ねば、 みんなばらばらで死ぬから、もっとかわいそうだった。」
家では祖母と妹が、泣いて待っていました。部屋を貸してくださっていた農家のおじいさんが、杉板を削って小さ な小さな棺を作っていてくださいました。弟はその小さな小さな棺に、母と僕の手で寝かされました。小さな弟でし たが、棺が小さすぎて入りませんでした。
母が、「大きくなっていたんだね。」とヒロユキのひざを曲げて棺に入れました。そのとき、母は初めて泣きました。
父は、戦争に行ってすぐ生まれたヒロユキの顔を、とうとう見ないままでした。
弟が死んで九日後の八月六日に、ヒロシマに原子爆弾が落とされました。その三日後にナガサキに――。
そして、六日たった一九四五年八月十五日に戦争は終わりました。
僕はひもじかったことと、弟の死は一生忘れません。
(米倉斉加年 著/偕成社 「おとなになれなかった弟たちに…」より一部引用 )
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棺に入らなかった遺体。気丈な母親が初めて見せた涙。子を持つ親ならばその心情は計り知れないですね。
淡々とした筆致に戦争の悲惨さがよけい伝わってきます。