グレート・ギャツビー
休みの間に村上春樹さんが新訳したスコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」を読みました。
自身の本を出せばすぐベストセラー、評論家曰く「夏目漱石以降、もっとも重要な作家」とされる村上さんが一番影響されたという米国文学作品の翻訳モノです。
内容は、1920年代のアメリカ上流階級におけるギャツビーというひとりの男の恋愛にまつわる悲劇を、とりまく人間とともに情景豊かに描いた作品なのですが、わたしには一読ではあまりピンとくる作品ではありませんでした。
あえて今の時代に読むにはストーリーが単純だとか、主人公が追い求める女性にそれほどの魅力を感じない・・といったことを書くつもりはないのですが、村上さんが指摘するこの作品のスゴいところ「すべての情念や感情がきわめて精緻に、そして多義的に言語化された文学作品」(あとがきより)とはあまり思えませんでした。
私は子供のころから、海外のミステリー小説が大好きで今までにかなりの数の翻訳モノを読んだのですが、子供心にも「こんな言い方はしないよなぁ~」と首をかしげる表現にぶつかることがたまにあり、中には翻訳の不出来によって作品自体の魅力が半減しているモノもありました。
村上さんもあとがきに、「賞味期限のない文学作品は数多いが、賞味期限のない翻訳というのはまず存在しない」とか、結局のところ英語で書かれたこういった精緻な文章は英語で一行一行丁寧に読んでいかないとその素晴らしさが十分に理解できない、と他国語に置き換えることによって失われる作品の風味の劣化について、翻訳の限界という形で書かれています。またそれ以上にこの美しい文体についていくのにはかなりの読み手でないと(英語が多少読めるというだけではない)むずかしいだろうとまでおっしゃっています。それなら翻訳するなって(笑
それでも冒頭から引き込まれるような名文から(村上さんの「風の歌を聴け」を思い出しました)読み終えるまで、はてなと首をかしげるような表現は皆無でしたし、情景がすぅーっと入ってくるあたりは、精緻さはべつとして翻訳として十分すばらしいと思います。わたしはまだ読みが浅いのでしょう。
これから読む方にはストーリーではなく文章を楽しむ小説だということをお伝えしたいと思います。